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この地図を見てほしい。

とある郷土史探求家から提供された明治20年頃の宮城野全村地図。

宮城野村の西側に広がるその地域は、地図では真っ白でなにも記載が

ない地域 だった。そこは、山桜などの喬木・山百合などが生い茂る

雑林地帯。

この場所は、宮城野村の村有地で、向山(むこうやま)と言われていた。宮城野村 から見て、標高差約100メートルもあり、早川を渡った”向こうの山”という場 所であることから、向山と言われた。向山は、山林原野合わせて87町ほどの 土地であったが、宮城野村の財政上の関係から、明治10年(1877年)温泉村 底倉の梅屋旅館、鈴木牧太郎に売られた。

※「強羅」という地名は、小田原電気鉄道が所有する土地の「地獄沢、新林、  早雲山」などの字名を「強羅」という名称を以って、土地開発をなすために、

 宮城野議会に申請され、大正元年10月3日付けにて許可されたもの。 ただ 

 し、小田原電気鉄道が取得した向山の南側部分(箱根登山ケーブルカーを 基準線

 として南側の土地)であり、取得していない残り北側の土地は、向山と  そのま

 ま言われた。向山(北側)は、明治38年頃には全域を村民に無償で割  譲して分

 割し、各自の所有としていた。

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平松は、明治15年に東京日本橋で平松銀行を設立、株券や公債を仲介・売買して財を成した人物で、明治19年に東京でコレラが流行したので、箱根に逃げてきて、明治20年頃から箱根堂ヶ島に別荘を営む一方で、強羅の開発にも乗り出したのである。しかし、強羅取得後僅か2年後の明治22年3月に死去、養子とした二代目甚四郎が後を継いだが、翌23年の恐慌のあおりを受けて銀行経営が悪化、間もなく倒産し資産は公売に付されたという。このわずか数年の間、強羅では早雲山噴煙口の一隅から上強羅付近(現在、早雲山駅付近)の早雲館所在地まで、自然流出の温泉を引き入れる工事が進められたといわれている。その後、明治24年12月3日、東京の酒問屋を営む山脇善助に所有が移った。山脇善助は、宮城野~強羅~早雲山をつなぐ道路を開拓し、早雲山より温泉を引いて大浴場を建設する一大リゾートを計画して工事に臨んだ。旅館早雲館や大浴場の建設、早雲山硫気孔からの温泉引用工事を明治27年に完成させた。宮城野から強羅を縦走して早雲山に至る幅員2間(3.6m)の道路も完成させた。この沿道の原野と雑木林の中には、奇岩怪石をふんだんに取り入れた遊園地も計画され、その付近に3つの大きな貯水池も掘られた。池には、早雲地獄から流れ出る沢の水を取り入れる予定であったが、水量が足らずに実現をみなかった。その後、資金難に見舞われ、工事半ばで断念した。

※富士屋ホテル社長の山口仙之助が、明治22年には宮ノ下から木賀温泉まで 

 人力車や馬車が通れる道を開削しており、山脇善助時代には、宮城野から

 早雲山への道路開拓に必要な資材運搬や人流については、この開削された

 道路の恩恵を受けていたと考えられる。

明治35年6月26日に東京の実業家香川泰一へ所有が移った。香川泰一は、強羅の開発をさらに進めるため、当時大涌谷一帯を所有していた宮内省から温泉源地を借用し、強羅までの大涌谷温泉の引き湯を計画した。そして明治37年頃には8寸土管での引き湯に成功、露天風呂を造って大いに人気を博したという。その後も道路建設などさまざまな計画を進めようとしたが、やはり資金難に陥り、悩んだ末に相談したのが知人の清水仁三郎であった。 清水仁三郎は京都の建築家・清水清兵衛の次男に生まれ、建築工学を学んだ後明治35年に三菱会社の岩崎家建築技師となった。建築家としての腕に高い評価と信頼を得ていた清水は、三菱会社二代目岩崎弥之助が箱根湯本に建てようとした別荘の建築を任され、明治38年に竣工させていた。折から香川から相談を受けた清水は共に資金繰りに奔走したが、解決のめどは立たず、やむなく弥之助に相談したところ、彼自身が構想した箱根国園論の実現を諭されてしまう。そこで清水は財界の有力者らに謀り、強羅、さらには箱根一帯を開発しようと意を同じくする20名ほどの実業家らが共同で強羅の地を引き受けることとなったのである。彼らは帝国生命保険会社の関係者や財界人の集まりである交詢社関係者らが中心となって構成され、明治40年1月に香川から強羅の地を取得した。

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3つの大きな貯水池の場所

彼らは湯本から箱根山中を結ぶ箱根遊覧鉄道の敷設や強羅の土地分譲などを計画し、その中で清水は大涌谷からの温泉を利用して旅館「後楽館」を翌41年3月に開業、関係者である清水コトに経営を任せた。この「後楽館」は旅館として経営する一方で、共同出資者や強羅の土地所有者やその関係者たちが休憩所や入浴所として利用できるよう、会員制の「強羅倶楽部」の拠点とすることを意図していたようだ。客室は27室、このほかに別棟があって「温泉付の貸別荘」として広告を出すなど、強羅温泉の名を広める施設となった。

 

※明治30年代に入ると、小田原や箱根では電化の動きが活発で、早川や須雲川など急流な川 があり、水力発電に向く土地柄だった。水力発電は、須雲川に取水口を設け

 て、「湯本茶屋」 という地区に発電所を設置した。小田原電気鉄道(後の箱根登山鉄道)も電化されて、箱根には 東京からの資本や人財の流入がしやすい環境となってい

 た。

そして、強羅開発は本格化していく。

そのきっかけについて、小田原電気鉄道「沿革概要」には次のような動きを紹介している。「登山鉄道布設計画の起因は明治40年海外漫遊の途次、スイスの実況を視察せし来れる人の寄書きに考うる所あり」

「井上侯爵、益田孝、近藤傭平両男爵、福原有信等の諸名士、交詢社に会合した るとき、我国発展の一策として、湯本以西、箱根山上に電気鉄道の軌道延長を 発案した」 ここにある「明治40年海外漫遊の途次、スイスの実況を視察せし来れる人」は、 同年6月から5か月間海外視察を行った益田孝と推察されている。 また、渋沢栄一の日記には、明治41年7月の交詢社の会合で、担当技師から 宮ノ下までの電気鉄道延長に関する説明を受けたとあり、おそらく益田の 声掛けで、懇意にしている財界人に集まってもらい、登山鉄道敷設に向けた増資 対策で協力を得る根回しをして計画が推進されていたと考える。この場には、 草郷や福原などの小田原電気鉄道経営陣も同席をしていた。 明治43年1月29日、小田原電気鉄道の臨時株主総会が開かれ、湯本・強羅間の 登山電車敷設計画と資本金増額が可決された。そして、終着駅となる強羅は、 登山電車が発展していくにあたって大事な場所になっていくため、小田原電気 鉄道は、この土地の譲受交渉を進めていった。この土地の共同所有者の多くは、 小田原電気鉄道の株主あるいは親交がある人が多かったため交渉はスムーズに 運んだという。

そして、明治44年12月25日に強羅の36万8000余坪の土地と、家屋・ 温泉・上水用渓水の引用権等の一切を譲受し、土地所有権を獲得した。 明治41年に清水仁三郎が開業した「後楽館」も小田原電気鉄道へと渡り、 明治44年以降には「強羅館」となった。明治44年には、清水仁三郎は、岩崎家 を辞して清水建築工務所を開設、明治45年には、京都府の代議士となっている。 後楽館は、強羅館と名前が変わっても、引き続き、関係者のメリットを享受 できる温泉旅館として利用され、草郷や益田をはじめとする小田原電気鉄道 関係者やその親交者たちに利用され、その人脈に近かった片桐サクという女性が その経営を任されることとなった。 明治45年2月17日、湯本から強羅までの電気鉄道延長工事は、工事施工許可が 下りた。同年4月には、強羅一帯の土地分譲のための「箱根強羅温泉地売渡案内」 が作成された。

 

明治45年7月30日、明治天皇崩御。 そして、即日に大正元年7月30日となった

​約4か月後、大正元年(1912年)11月8日、登山鉄道敷設工事着工。約7年間 の工事がはじまった。

 

※翌年の大正2年に下強羅~上強羅(早雲山)を結ぶケーブルカー敷設免許を申請取得したが、計画と実施は、登山電車で手がいっぱいだったためしばらく延期された。

 

強羅の分譲地計画だが、小田原電気鉄道が所有する36万8000余坪のうち、 約4割に相当する15万坪(49万5900平方メートル)であった。旅館や別荘地 に適する緩傾斜地に多く造成され、碁盤目状にきれいに区画された分譲地は 148区画に分かれ、一区画毎に温泉・水道付きで売り出された。 一区画の大きさは、最高で1128坪(サッカーグラウンド1面分)、最低78坪 (テニスコート1面分)、平均400~500坪であった。良質な温泉付という魅力 があり、避暑地としても最適な地であった。時には「温泉付きの新軽井沢の出現」 という声までが聞かれるようになっていた。 分譲地内には、洋風庭園と和風庭園の造園が計画されていた。造園の設計は、 益田孝の弟で茶人として知られた益田英作が美術に造詣が深いことからその人脈 を活用して、アメリカで造園を学んだ一色七五郎に依頼し、一色は設計から施工 まで担当した。造園は、分譲地の中心部に当たる約1万1000坪(サッカー グランド4面分)の地域に構築された。

この庭園は「強羅園」(現在は「強羅公園」)と命名され、別荘分譲販売の最中、 別荘分譲地のシンボルとして大正3年8月20日開園する。 登山電車は、その頃はまだ大平台付近のトンネル工事中であった。

強羅館(旧後楽館)では、後楽館時代の共同出資者である財界人や実業家が交流の 場や静養の場としても継続して活用されていた。帝国生命保険株式会社社長の 福原有信、海軍医官の高橋秀松(帝国生命保険役員)、化学工業関係の高峰譲吉 (三共初代社長)、志賀直温(日本酢酸醸造役員)、福澤桃介(福澤諭吉の娘婿)、 福澤一太郎(福澤諭吉の長男)、福澤捨次郎(福澤諭吉の次男)、その他に和田豊治 (富士紡績)、清水仁三郎(京都衆議院議員) などの多くの実業家やその関係者たち が利用していた。強羅館の経営を任され ていたのは、片桐サクという女性だった。 片桐サクは、その後たちまち旅館経営者 として信頼を得ていくこととなった。

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強羅館の場所

大正3年頃には、強羅公園の開園も無事に果たし、別荘分譲販売にも力がより一層入っていたが、登山電車は、起工後まもなくして設計変更や経済界の不況等によって、工事が中断されていた時期でもあった(大正4年8月に工事再開)。

その当時の小田原電気鉄道社長の草郷清四郎と副社長の中根虎四郎が、ある日強羅館に訪れたときに、片桐サクに「お前は東京にも澤山立派な知合いを持っているから、この強羅の土地をその人たちに買ってもらうよう骨折くれぬか」と片桐サクが強羅館で知り得た人脈を頼りにするような発言があったという。強羅館は、小田原電気鉄道の所有している温泉旅館であるため、日ごろの恩義を感じていた片桐サクは、少しでも役に立てるよう東京に赴き、福澤桃介(日本の電力業界を中心に活動した実業家で福澤諭吉の婿養子)、星一(星製薬の創業者)、藤山雷太(藤山コンツェルン設立者)の3名に話をして、3名から前向きな返事をもらって片桐サクは強羅に帰ってきた。

その翌年の大正4年に、片桐サクとの約束を果たすべく福澤桃介は、強羅館に赴き強羅の別荘分譲地を見て回った。その後も、福澤桃介は知合いを連れて、強羅の別荘分譲地を紹介しており、それが売れ始めていくひとつの糸口になったという。

小田原電気鉄道が提供する別荘分譲148区画は、最終的には登山電車開通前に多くが売れる状況となった。所有者は、小田原電気鉄道が譲受する前の共同購入者や、三井系企業、三菱系企業、福澤家親族・慶応義塾大学出身者など、益田孝や草郷清四郎の人脈につながる人が多くを占めた。

そして、大正5年頃、強羅館を運営する片桐サクは、「強羅の土地に守り神が必要 なのでは」と小田原電気鉄道役員に進言をした。小田原電気鉄道役員は、 「どこでもお前がよいと思うところを選び、そこに祀るから」との考えを示した が、片桐サクは「さすがに私にはそんなことを出来る立場にはないです」という やり取りをしていた。小田原電気鉄道は、片桐サクのこれまでの貢献に対して、 礼金の代わりとして「早雲山の所の7700坪あまりをお前にやるから」という 行いをした。 片桐サクは、継続して守り神を祭ることを訴えていたため、親交のあった星一 (星製薬会社)の助言で、小田原市にある大雄山最乗寺の道了様をお祭りすることを 検討した。また、お祭りする場所は、片桐サクの提案で、彼女に与えた7700坪 の土地を提供する方向となった。当時の大雄山最乗寺第八世の山主「新井石禅禅師」 (大正9年には57歳の異例の出世にて鶴見大本山総持寺貫主となる)に相談し、現地 をみてもらったところ、「よろしかろう」という快諾を頂き、正式に早雲山の 7700坪を大雄山最乗寺に寄付した。新井石禅禅師は、大雄山最乗寺の在位が 4年9か月間あったが、この話は、ちょうど就任した年で、強羅への道了様設置は 「道了様の徳化を広く示すことができる」と喜ばれていたと、大雄山誌には記録が 残っている。

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大雄山最乗寺箱根別院の本堂建立は、第一次世界大戦などの影響で、木材の運搬 などがうまくいかずに建設は進まなかった。先行して計画されていた観音堂には 用意された材料があるので、先にそれを建設し、そこに道了様をご遷座させて 「道了尊祈願所」として大正5年からはじまった。また、片桐サクは、新井石禅 禅師の徳に心酔され、その後お弟子さんという立場になった。 大正8年になると、小田原電気鉄道は、強羅館を 塔ノ沢の新玉の湯の経営者である小川方成に売却 した。それに合わせて、強羅館の運営を任されて いた片桐サクは、次に一福旅館を任されることに なった。実業家の「星一」と「福澤桃介」の名前 から一文字づつ取って、「一福」という名前に なったと言われる。

 

 

この旅館でも、強羅館と同様に実業家や小田原電気鉄道関係者などが、いろいろと話し合うような場として活用された。強羅の観光開発を課題とした「五日会」という会議体が発足されて、片桐サクはその運営を任された。月の五日に会議が行われたことから「五日会」と言われた。

(五日会メンバー)

草郷清四郎(小田原電気鉄道社長)

中根虎四郎(小田原電気鉄道副社長)

清水仁三郎(衆議院議員(京都)、技師)

星  一 (星製薬社長)

福澤桃介 (実業家)

益田 孝 (三井財閥実業家)

久米民之助(実業家)

一色七五郎(造園家、強羅公園設計造園)

片桐 サク(一福旅館経営 京都出身)

この他にも地元の有力者なども会合に関係したと思われる。

大正8年6月1日に、箱根湯本~強羅間が開通し登山電車が運転開始された。

これで、箱根山は、誰もが登れて楽しめる観光地へと徐々に変貌していくこと になる。箱根各所の温泉郷も賑わいを見せつつ、バスによる富士屋自動車の運転 開始もあり、箱根山の近代化がここからさらに発展していく。

翌年の大正9年2月14日には、東京・箱根間大学駅伝競争、いわゆる箱根駅伝が はじめて開催された。第1回は、参加校は4校で、明治大、東京高等師範 (現:筑波大)、早稲田大、慶応大であった。東京の有楽町から午後1時にスタート して、優勝した明治大は、午後8時30分に箱根町のゴール地点にゴールインした。 最後の慶応大の選手は、午後9時53分に無事ゴールインした。翌日は、午前7時 に東京に向かって復路がスタートした。 これ以降、皆さんご存じの駅伝競争として正月に行われ続けている。

強羅でも五日会にて、強羅大文字焼の企画や議論がなされていた。 京都如意ヶ岳の大文字を模したもので、観光と避暑客の慰安を兼ねたものとして 明星ヶ岳で大正10年から始められた。

この大文字焼は、五日会で企画・資金拠出され、地元の宮城野村の村長をはじめ、 多くの村民に協力を頂き実現された。今も、宮城野村青年会を中心とした方々に 支えられている。

大正10年6月頃からは、ケーブルカーの敷設計画が実行された。約半年間の 工期を経て、11月に完成し、12月1日より運行開始された。ケーブルカーの 運行としては国内で2番目の開設となったが、 外国製のケーブルカーを使用したのは国内初で あった。また、このケーブルカーは、分譲された 別荘や旅館の人々の日常交通に益するものとして も考慮され、区間には、中間駅として公園下、 公園上、中強羅、早雲館という4つの駅も設置さ れた。登山電車の計画時から構想があった箱根 回遊コースの一環であるケーブルカーであったが、 日常利用にも考慮された大変珍しいケースとなっ ていた。

ケーブルカーの終点である上強羅駅(現:早雲山駅)の近くに開山された大雄山 最乗寺箱根別院はまだ建設途中であった。その頃の大雄山最乗寺山主は、杉本道山 禅師となっていた。 建設が進む中、大正12年9月1日、関東大震災が起こり、工事は中断を余儀なく された。関東大震災は、震源が大島付近ということもあり、箱根山でも各所で 被害が発生した。震災後まずは、交通網の復旧が優先された。国道1号線の宮ノ下 から芦ノ湖の箱根町までの道路は、幸いなことに大崩壊した個所はなく、崩壊個所 を応急処置して小型自動車が通れるだけの復旧工事ができたが、被害が大きかった 箱根湯本から宮ノ下間の道路が難航した。 ただし、登山電車の損害は、それに 比べて意外と軽微だったと言われる。

 

※全線開通は大正13年末国道1号線の箱根湯本から  宮ノ下間の復旧工事は、大正14年7月に完成し、約2年間を要した。

さて、大雄山最乗寺箱根別院だが、大正14年10月に無事に完成した。 当時の大雄山最乗寺山主は、第九世の杉本道山禅師ではあったが、新井石禅貫主 も来られ、遷座式を行ったという。この頃に、片桐サクも剃髪し、一福旅館をや めて、箱根別院の天祐閣に住んでいた。この片桐サクは、箱根別院に入ると片桐 慈光尼と言われるようになり、後に箱根別院境内に置かれた開山記念石碑にも 名前が刻まれると共に、最初の頃に建立された観音堂(今は光明塔という)の中で ご本人の木造座像が大事に保管されている。益田孝をはじめとした実業家や財界 人などの中で、貢献したひとりの女性としてここに書き記しておく。

最後に、隣地の向山(北側)は、登山電車が運転開始した大正8年以降に、 堤康次郎の箱根土地株式会社が多くの土地を取得して、別荘分譲を展開した。 ※分譲地は所有地の一部のみ 奇岩怪石の土地が、明治20年代中頃から大正時代の約40年かけて、実業家たち の襷リレー開発で日本有数の一大リゾート地になった強羅。昭和・平成時代を 経て、令和となった今も、リゾート地として、海外観光客や日本の観光客で にぎわっている。

※参考文献・資料等 

箱根登山鉄道のあゆみ(発行:箱根登山鉄道社史編纂委員会) ワンコインシリーズ5 

箱根温泉の歴史(発行:箱根町教育委員会) 

箱根温泉史(箱根温泉旅館協同組合編) 

強羅大文字焼考証・概説(小林恭一著) 

箱根の開発と渋沢栄一(武田尚子著) 

大雄山誌 

箱根の遊園地・観光鉄道創設を誘発した

観光特化型“不動産ファンド” 

(小川功 跡見学園女子大学 / 教授滋賀大学 / 名誉教授) 

 

※監修・協力・資料提供・写真提供  

勝俣洋一(宮城野郷土史探求家) 

鈴木康弘(箱根町郷土資料館館長) 

大雄山最乗寺 紀綱山田老師 

大雄山最乗寺箱根別院 

箱根温泉旅館協同組合 

嶋雄司(島写真館)

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片桐慈光尼 木造座像

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大堂建立遷座式 大正14年10月

独住第九世 杉本道山

紀綱    河合真英

信徒総代  草郷清四郎(箱根登山鉄道)

      中根虎四郎      

      星 一

      瀬戸花吉

      片桐慈光尼

      阿川 たつ

昭和15年秋 記念石碑建立

 

独住第十一世 大石観法

紀綱     鈴木良純

別院主任   岡本道弘

信徒総代   阿川順一       

       中村藤蔵

       大森保次

       間瀬憲一  

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